どうも、ゆめとです。
今日は少し大げさなテーマですが生きる意味について考えていこうと思います。
ボクの結論
何の為に生きるかで
生き方は大きく変わる
このブログでも何度か触れましたがボクはどちらかというと人生を「なんとなく」「どうにかなるだろう」そんな気持ちで生きてきました。それでも「死にたい」と思ったことがあるワケでは無かったし、そんなボクは人は何の為に生きるのだろう?と疑問に思ったワケです。
今は考え方も変われば「生きなければいけない理由」も「生きたいと思える気持ち」もあります。だからこそ、何か目標や生甲斐があったワケではないボクは何故今まで生きて来られたのか、何の為に生きていたのかそんなことを思ってしまうのです。
それでは、いってみよう!
何の為に生きるのかを知ることは生き方をみつめること
生甲斐って意外と大切な言葉
「生甲斐」
生きるに値するだけの価値。生きていることの喜びや幸福感。 「 -を見つける」
出典元:weblio辞書
少し前までのボクには生甲斐と言えるものが無かった。それこそ進路を決めるにあたって将来の夢とかを考えたしそこへ向かっているはずだったけど、それこそ「なんとなく」で生きていたボクはその夢が自分のしたいことで無くなった瞬間に向かうべき方向を見失った。
そして生甲斐と言えるものがなかったであろうボクと友人の会話には明確な違いがあった。
ボクは就職をロールプレイングゲームで言うラスボスととらえ、就職したあとは「ただ経験値を稼いでレベルを上げるだけ」と言っていたのを覚えている。対して友人は「そんなこと無い、まだまだ中ボスくらいだろ」と言っていた。
少なからずボクと友人の間には生甲斐と呼べるモノを持っているかどうかという違いがあったんじゃないかと今のボクなら思える。
何の為に誰の為に生きるのか?
だとすれば、ボクは何故生きて来られたのだろう?まあ、生きてきたというよりはそれこそなんとなく生きながらえていたという解釈が正しいのかもしれない。そう、生甲斐や希望というものが無かった変わりに絶望もしてはいなかったのだ。そのうえで何故生きるか?と考えるならば
- 将来の夢
- 家族や恋人
- 趣味や楽しみ
と言ったところかな?ボクの生きる理由はどちらかと言えば2番。それも自分の為に生きるというよりはボクが居なくなって悲しむ人のことや「親より先に死ぬことを親不孝」と考えていた。
でも、きっとそれは間違いでなくても正解でもないんだと思う。やっぱり人生や生甲斐というものは自分自身の為にあるべきだ。「相手が悲しむから」ではなく「自分が相手と居たいから」生きるという考え方。
生きる意味を考えるとき死を考える
ボクは死にたいと思わなければ生きたいとも思ったことはない。きっと、この二つは片方だけでは実感できないのだ。生きたくないと思うから死にたいと思い、死にたくないと思うから生きたいと思える。
だからこそ、今のボクは生きたいと感じれる。やるべきことやりたいこと、会いたい人。そんなものを実感できたときそれが生甲斐に変わる。それを叶える為にまだまだ生きたいと思える。
そのためには、やっぱり生甲斐や自分の幸福を一番に考えるべきだと思う。
「なんとなく」生きるって意外と大事
散々生甲斐なんてものについて語ってきたけど、生きようと思う力にとってそれは大事なことだと思う。けど、仮に生甲斐がなくたって「なんとなく」で生きることも大事なこと。
今、生甲斐が無くたって生きていれば生甲斐と出会える可能性だってある。それまでなんとなくで生きたって誰も文句なんか言わない、辛いことや苦しいことと戦える強さも時には大事な事なのかもしれないけど、生甲斐が無いからって死を選ぶことはボクは違うと思う。
ただの経験値稼ぎだと思っていたボクの人生も、今はまだまだ旅の途中だと思える。生甲斐がみつからない今は経験値稼ぎだっていいんだと思う。ある日突然、貴方の旅の目的がみつかる時がちゃんと来るその日まで。
つぎはぎな日々
無くても生きれるけど
有ればもっと頑張れる
生甲斐ってそんなもの
退屈な村人だったボクを
キミは勇者に変える
まとめ
皆さんは何の為に生きているでしょうか?偉そうかもしれませんが、ボクと同じく生きている意味を感じれない人がもし居るとするならば1度考えてみるのもいいかも知れません。もしかしたらあなたは生甲斐を感じれていないかもしれません。
生甲斐を見つめなおすことは、残りの自分の人生を見つめなおすことだとボクは考えます。今は退屈な毎日だったとして、あなたが生甲斐に出会えた時それを追うことはきっとあなたの人生を鮮やかに彩ることでしょう。
それでは、この辺で。
コメント